エウロパの海、より。

「エウロパの海」の更新報告とか、活動報告とか、思考メモとか。

静岡文学マルシェに参加しました+文学を語りなおすということ

6/16(日)、静岡文学マルシェに行ってきました。楽しかったー!

桃パフェはおいしかったし、キウイのマフィンもおいしかった…食べ物ばっかりか。本はどうした。作りました。なぜかプラスチックケース入りとかいう、遠征にすこぶる不向きな本を出しました。当日手に取ってくださった皆様、ありがとうございました。(※新刊の「ネクタリスの海底」です)


ちなみに当日は、さらばさんに売り子をお願いしました。年に何回も会える人ではないので、このイベントを口実に会いに行ったという説もあります。そういうきっかけでもないと遠征しないので...。
なお、前日は熱海観光からの温泉で、完全にスイッチオフ状態でした。なぜかカニまで食べた。その話はまた今度、できればネプリペーパーにでもしたい。

静マルは新幹線の都合で15時過ぎには撤収しないといけなかったんですけど、14時過ぎにはすっかり落ち着いていて、のんびししたイベントだった印象です。ほぼ食べてるかしゃべってるかだった...立ち寄ってくださった方とも、色々なお話ができて楽しかったです。目にとめてくださってありがとうございました。

また、スタッフの皆様もほんとうにお疲れ様でした。最後にめんどうな宅配荷物を頼んですみませんでした。無事に届きました。

 

で、これで終わってしまうのもアレなので、帰りにつらつら考えていたことをぴょろっと書きます。 

 

今年の静マル、昨年と比べても一般参加者は少なめかな、という印象で、この規模のイベントではよく言われている課題だしな、とパフェ食べながら会場の様子を眺めてたんですけど、ちょっと待ってくれ。そうじゃない。

いや、書き手ばっかで読み手がいないとか、時々湧き上がってくるそういう話について春先からずっとふんわり考えていたのだけれども、なんとなく静マルの帰りに「もしかしてこういうことでは」って思ったことがあったので適当に語ります。イベントに対するどうこうではなく、ただの思考メモです。

あえて言うと、読み手が少ないことは問題じゃない。

文学の本質は読まれることではなく、発信することじゃないか。ここ大事なので、心のなかで各自赤ペンで線引いて。

いや、こう、ついでのように近代文学とかの話をするんですけど。太宰とか芥川とか鏡花とか、私の推しの中島敦とか。そういうのは、ただ読んでしみじみするだけだったら、それこそ文学は終わったコンテンツなんですよ。たぶん。誰かが言っていたとおり。

でも発信するじゃん。萌えるとかエモイとかヤバイとか言うじゃん。SNSとかで。李陵のエモさ語ったら1時間じゃ足りないよ私。あのほら、あれだ、太子丹が荊軻を送るところが最高潮なんですけど、今はその話じゃなくて、でもそれだ。我々がそうやって、今この時代で、今の生活とか社会とか考え方とかを背景にして語り直すから、文学は生きてるんじゃないのか。っていうところからこう、どこかに話を持っていきたかったんだけどここら辺で正気に返ってしまったので話を畳みますね…。

 

感想言おうよとか、さらに交流しようとか、そういう話ではないです。どっちかっていうと、交流のために創作するという感覚は苦手な方で、旅立っていった物語は好きに受け取っていただいて構わないと思っており。ただ、発信するということは、読み手が表現者になる瞬間で、それは感想でもいいし二次創作でもいいし、あるいはもっとなにか違う形があるのかもしれないけど、ともかく何かしら人から人に語り直されていかなければそれまでで、文学はほっといたら死ぬんだな…なんてことを考えていたのでした。

同人誌即売会という場に関して言えば、たぶん、「本を作る」と「本を読む」の間に位置する何かが必要なのかもしれない。本を作っている訳じゃないけど物語を書いている人とか、小説は書かないけれど手作りが好きな人とか、小説を書く人に会って何かやってみたい人とか、そういう、「間に位置する人」が、潜在的なイベント需要としてあるはずなのでは、と。しらんけど(※関西弁)。

 

ここまでとりとめもない雑談でした。
話、畳もうな。

 

私は普段大阪にいるので、年間スケジュールを立てるときは、まず文フリ大坂や関西コミティアを考えるんですけど、静マルも、静岡やその近隣県で(広義の)文学してる人たちにとって、そういうイベントになったらいいな...と思います。


それでは、また来年。