エウロパの海、より。

「エウロパの海」の更新報告とか、活動報告とか、思考メモとか。

本づくりにまつわる雑談(オチはない)

これはただの雑談。宣伝も告知もないし、オチも教訓もありません。そのうち適当に消す感じの文章。

詳細は省きますが、長いこと誰にも読まれない小説を書いていました。
ふと本を作ろうと思ったのが3年前です。
そのために、ひとまず1万字~2万字くらいの完結したお話を書き、初めて印刷所にお願いして作った本が「夜さりどきの化石たち」でした。少しだけ刷って、ありがたいことに、その年に出たイベントでほとんど旅立っていきました。
とはいえ、時々耳にするような「初イベントで頒布数がぜろ」だったとしても、あんまり落ち込まなかっただろうとも思います。
今でもよく覚えているんですけど、自分の文章が本の形になったことがものすごく嬉しくて、ほかのことはわりとどうでもよかったもよう。表紙があり、ページをめくって読むことができる。すごい。すごいことです。今でもその感情を思い出すことができるのですが、とてもすごいことです。やばい。
この「やばい」という感覚は、次に作った「Milkomeda」という本にもあらわれています。B6横型。横って。2冊目にして装丁で遊び始めた。いや、B6横って、縦書きでちょうどいい感じでとても気に入っていたんですが、外に持ち出すには向かないんだな...というわけで、「Milkomeda」は現在は頒布終了し、文庫版の「ペルセウスの旅人」にほぼそのまま再録しています。宣伝も告知もないというのは嘘でした。よろしくお願いします。文フリ大阪に持って行きますので。

最初に出した「夜さりどきの化石たち」には感想など頂くことはなくて、そういうものが頂けるとも思っていませんでした。想像もしていなかった。誰も読んでいないつもりで出していた。そういう期間が長すぎたので。実際には感想を書いてくださった方がいたり、その感想を見て興味を持ってくださった方もいらっしゃったんですけど、そういう方向のアンテナが、なんていうか、なかったんだ。ずっとあとで知りましたすみませんでした。今もわりとそうなんですけど、自分がどこでどんなふうに言われているかという感度が非常に低いです。申し訳ない。

このあと「星の指先」「フリンジラ・モンテ・フリンジラ」などの本を作りましたが、だいたいが、自分の読みたいお話を書いて、自分の作りたい本にするというスタンスでの活動でした。

ふとその感覚が変わったな、と思ったのがこの文章を書き始めたトリガーでしたそういえば。思い出した。今。ここまで、この文章どこに行くんだろうと思ってたんだ実は。
ミヒャエル・エンデの「物語の余白」という本を読んでから、ふと、物語の「語り手」と「聞き手」という形を意識するようになって、今シーズンはちょっといつもと違う本の作り方をしている気がしています。今までの「自分の中で完結しているものを、よかったらほかの方もどうぞ」というスタンスから、少し違う感覚になっています。
物語を「語り手」から「聞き手」に手渡すために、「本」という形にしているのかもしれない、と。
旅立っていった物語の、その先を少し考えています。そういうものがあればいいなぐらいのアレですが。

で、その結果装丁にこだわってるの、最初に戻ってる感じがして我ながら意味がわからない。今年出した(出す)2冊の本(もしかしたらもう1冊)、どういう形で語られる物語だろうと想像していると、自然と装丁が浮かんできて面白かったです。

私が書いた本は、私が好きなように作った本で、それはこれまでどおりですが、それはそれとして、誰かのもとに旅立ったなら、それはもう、手にした人の本であってほしい。読んだ方が「これは自分のために書かれた本みたいだ」と思ってくださったなら、それが物語の目的地です。もしそう感じてくださった方がいらっしゃるなら、その本はあなたのために書かれた本ですし、そういう本を作りたいような気がしています。

みたいなことを、次に出す本の後書きに書いときましたが、大半の人にとってはきっとどうでもいいというか、ここまで長々と全部雑談です。