エウロパの海、より。

「エウロパの海」の更新報告とか、活動報告とか、思考メモとか。

今年の10冊2019ver.(前編)

今年もやってまいりました。

長くなりそうなので、科学や社会問題などを主題にした「物語ではないもの」を前編、小説やエッセイなどの「物語的なもの」を後編にお送りしたいと思います。

今年前半は会社にキレて転職活動&退職交渉なんかやってたもんだから、なんか、そもそも人生とは、社会とは、人間とは...みたいなものを手探りしてる感じのラインナップになっていますが、あくまでも「私にとっては」なので、「どこら辺が」と言われても「まあ全部かな」としか。そんなこんなで、前編どうぞ。

 

『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』川端裕人

タイトルがもうすでに辛い。ホモサピエンスだけが生き残り、文明を築き、情報社会を形成しているのはなぜか。多種多様に存在していた近縁種はどこへ消えてしまったのか。

結論にはあまり興味がなく、ただ、なぜそれを問わなければならないのかに興味があって読んでみた本。


 

『絶滅できない動物たち』M・R・オコナー (著), 大下 英津子 (翻訳)

以前に読んだ福岡伸一氏の『動的平衡』において、生きている状態というのは環境の中にあって一定の動的平衡状態を保持することだとされていて、それが何となく頭の中にあったのだけれども、それはつまり、環境が変われば別の生物になるということも意味している。

ジャングルの奥で生きていた蛙を、保護のためにガラスケースの中に入れてしまえば、その瞬間から蛙は別の種へと変化の道を歩き出す。スバールバルの種子貯蔵施設が、あくまで小麦を中心とした、人間のための設備であるということも踏まえれば、遺伝子の保全によって守られるものは一体なんだろうと考えてしまう。

また一方で、今生きている動物を、その環境で生かすことにも限界はある。サイを密猟から守るために、レンジャーは密猟者を撃ち殺し、殺人者とならなければならない。

守るということのエゴと、その視野の狭さを突きつけてくる一冊。

 

『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ (著), 冨永 星 (翻訳)

エントロピー、またお前か。

しかしこれ系のお話にはストーカーのごとく登場するエントロピーですが、その解説がルイ16世の処刑から始まったのはこれが初めてでした。どういうことなの。時間はどこにいったの。私が知っている時間というものはどこに消えてしまったの。みたいな気持ちになる1冊。エントロピー、お前…お前な…。

結局のところ熱を扱うときにだけ時間という概念は生まれるという話からスタートし、我々の宇宙が特殊な状況を初期状態として設定した世界であるがために時間が発生するという、なんかふわっとまとめるとそういう話なのだけれども、結論よりもその過程において、時間というものがある条件下で消滅したり、揺らいだりするのがとても面白かった。

 

『100年かけてやる仕事――中世ラテン語の辞書を編む』小倉 孝保

この本には3つの論点がある。

ひとつめは、仕事とは事業であり、出資者がいて、何らかの価値でもってペイされなければならない。その価値とは何か、それを出資者どう説明し、理解させるのか。
ふたつめは、自身が生きているうちに完成しない事業に係わるというのは、どういうことか、ということ。
そしてみっつめは、言語を残すという、この事業そのものについて。

この「中世ラテン語の辞書を編む」という事業には100年かかったそうだけれど、その結果はきっと、1000年残るのだと思う。これを読んで、自分がやっている仕事は何年残るだろう、あるいは自分がやっている仕事の中に100年残るものがあるとすれば何だろう、ということを考えてしまった。

一方で、本書は、「過去のある時点・ある地域に限定した言語の辞書を作る」というプロジェクトを扱っており、言語についての言及も多い。その中で、日本におけるアイヌ語について、米国出身で日本語に関するエッセイや短歌などを書かれているアーサー・ビナード氏の言葉として言及されているくだりが印象に残っている。現在、経済は英語と中国語を話す人々で回っている、としたうえで、彼は言う。

「『アイヌ語はもうからないから止める』と考えた場合、次は『日本語ももうからないから止めよう』ということになります。アイヌ語をあきらめると、おっつけ日本語もあきらめることになるんです」

アイヌへのある種の憧憬のようなものがあり、ぽつぽつとアイヌ語の勉強などしている。中学校1年生の英語レベルだけれども。なぜ学ぶのかと問われても困る。何のためにと問われれば、ただ自分のためというほかない。

 

 

なんかそんな感じです。結局転職はしていないものの、なんだか人生の棚卸をしたような年になりました。物語系の本は次回に。

 

本に描かれたことは、本の中では現実なんだ、という暗黙の約束(すみっコぐらしの映画の感想)

「映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を見てきました。

色々な情報もレビューも出ているので説明などは一切省略して好き放題に感想を書き散らす記事にします。まだ見ていない方で、ネタバレはちょっと...という場合は、速やかにお戻りください。核心に触れるネタバレがありますというか、その辺りと揚げ物の魅力しか語る気はない。

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映画館でえいがをみるえびふらいのしっぽ。

という、ネタバレエクスキューズをしたところでこんばんは。
推しはとんかつとえびふらいのしっぽです。
揚げ物可愛い。
このコたち、お互い心つうじあう仲と言いつつ、夢は「誰かに」食べてもらうことという、お互い外側に求めるものがある感じが非常にしんどい関係性であり、どういう結末ならふたりともハッピーなのか考えるだけでだいぶ眠れない感じになります。しんどい。とんかつがソースとかカラシとかいっぱい付けてるの見ると「ありのままでいいのよ...君にはえびふらいのしっぽが...」みたいな気持ちにならないですか。私は毎日そんなことを考えてしんどいしんどい言ってます。

そんなこんなで映画見ました。
最初から最後まで可愛いし切ないし最高だった...。
見ていてあまりストレスやスリル感みたいな「胃が痛くなる展開」がないので、穏やかな気持ちで素直に笑って泣ける感じのよい映画でした。

結末だけは「これはどうしようもない別れなんだ...」って感じで悲しかったのだけれど、後日談のように語られた、ひよこのページに絵を描いたり仕掛けを作ったりする場面からのエンドロールが、逆転のハッピーエンドのようになっていてなんかもうめちゃくちゃ泣けるんだな...泣けたな...。

そして改めて冷静になってこの結末を振り返ってみると(ここまで2週間かかったんですけど)、
「二度と会えない」ひよこが、何もないページに「ひとりぼっちでいる」。
これが、現実としてのあの物語の結末でした。
ひよこは、ほかのすみっコたちと一緒に行けなくて、
だから最後までぺんぎん?は躊躇してうるうるしていて、
これは永遠のお別れだよ、おしまい、と。

「二度と会えない」人には、どうやったって「二度と会えない」わけで、言葉を交わすこともできないし、何かしてあげることもできない。
ということを、私たちは知っていて、恐らくは、そういうことを何度となく経験し、これからも経験し続けることになるのだろうと思うし、だからぺんぎん?の心境を思ってどうしようもなく苦しくなるんだな...と。

だから、この後に続く後日談で「二度と会えない」「ひとりぼっちでいる」ひよこのために、「何かをしてあげられる」ことの、ある種の奇跡とか幸福とかそういう言葉で呼んでもいいような場面が、なんかこう、めちゃくちゃ響いたんだろうな、と思いました。
みんなが鳥足&くちばしになってるのも可愛かった。

本に描かれたことは、本の中では現実なんだ、という暗黙の約束は、こういうこともできるんだ...という発見でもありました。

すみっコぐらし、わりと本をモチーフにしたグッズが多くて好きなんですけど、映画で、そういう本という「仕掛け」がこんな形で生きていて、すごく素敵だな...と思いました。

円盤買うから早く出してほしいし、ぬいぐるみとかグッズとか色々つけた豪華版にしてほしい。言い値で買う。

中島敦展を見てきました(感想)

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神奈川近代文学館で開催中の、中島敦展に行ってきました。

開催の情報が出たときからカレンダーに印をつけて楽しみにしていたのですが、いかんせん遠方なので、何か用事と抱き合わせで、と思っていたところに、ちょうど仕事で関東に行くことになって、これはチャンスでは……と。

ということで、以下感じたことなどのメモ。失礼ながら、出てくるお名前はすべて敬称略で書いています。

 

展示自体は期待通りというか、見たいものが見られたな、という感じで満足です。中島敦の作品のひとつひとつを丁寧に取り上げ、背景やそのときの状況、関連する資料などが展示されていて面白かった。こんなに膨大な数の資料を一度に見られる機会はもうないな...と思いました。


ところで、見終わったあとに図録を買ったのですが、その冒頭に、今回の展示の編集を担当した作家・池澤夏樹の文章があり、その最後の部分がとても印象深かったので引用させていただきます。

『彼が奉職した横浜高等女学校は当館から一キロあまりのところにあった。彼は外国人墓地を散策しただろう。彼が南洋に向けて船出した港は眼の下にある。そこまで含めて今回の展示と思っていただきたい。』

大変申し訳ない話、小さい頃から「文学館て何を見るところなんだろう」って思っていたところがありました。今でもよくわからずに足を運んでいます。美術館や博物館は分かる。「本物」を見に行くところ。本で見る名画と本物の名画は全然違うし、剥製も化石も鉱石も、本物が目の前にあるということの感動が凄くある。で、じゃあ文学の本物は、っていったら、それは本屋で買えるものでは、と首を傾げてしまう。書かれた本それ自体が本物であって、それを読むこと以上に何があるんだろうか、と。作家の身に着けていたものやら使っていた道具やらを見ることが、文学を理解することとどう関係あるのかが、いまいちしっくりこないまま今に至っています。

中島敦は本当に本当に好きな作家ということもあって、そういうゆかりのものひとつひとつにテンション上がったりしていたので、「そういうもんでは」と言われたら「まあ、せやな」って思ってしまいそうなんですが、そこでふと図録を開いて飛び込んできたのが上記の文章でした。

展示見終わってからぶらぶらと、港の見える丘公園を歩いて駅まで戻ったんですけど、その文章の影響か、「かめれおん日記」の中の文章がいくつもいくつも浮かんできて、中島敦がいた横浜にいるんだな……というふしぎな感慨がありました。

作家が生きた場所に文学館があるということの意味は、そういうことなんだな、というのを、初めて感じたような気がします。いや、今まで、誰それが逗留した旅館だとか言われてもあんまりテンション上がらなかったんですけど……何が違うんだろうな……結局は思い入れか……。

 

ちなみに、文ストのコミックスを持っていくと入館料が割引になるんですけど、出張の荷物に忘れずに入れておいた私グッジョブだし、ちゃんとワークシートやって敦君のクリアファイルも貰いました。ありがとうございました。

土曜日なのに空いていてゆっくり見られたんですけど、賑わってほしい気持ちもあるのでみんな……見てくれ……ついでに横浜お散歩しよう……。

【文フリ大阪版】エウロパの海 航行案内

文フリ大阪に出展するんですが、本もそこそこ増えてきて、「どれが何なのさ」状態なので、目的別航行案内をお届けします。

C-14「エウロパの海」にてお待ちしております。SFを中心とした、遠くを旅する物語をお届けします。立ち読みや、ちょっと覗いてみるくらいの気軽さでお越しください。

それではどぞー。

 

「初めまして」なんだけど、さくっと読めて作風がわかる本は?
『Farewell, My Last Sea』

海を題材にした短編集です。あちこちのアンソロや合同誌などにお邪魔した作品の再録なので、テーマに沿いつつも「佐々木海月らしい」作品が揃っています。SFっぽい作品が中心で、お試しの1冊におすすめ。

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がっつり本格SFが読みたい!
『弓と空』

情報工学と生物学を「えいやっ」とした本格SF長編で今のところ代表作。だいぶ前にハヤカワSFコンテストの1次選考に通過した作品だとかなんとか、こっそりここでアピっておきます...(小声)。

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遠いところを旅したい!
『...and I′m happy』
遠い北国へとご案内する今回の新刊。ここでようやく新刊が出てくるというのはどうなのか。新刊です!よろしくお願いします!

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身近な日常をたどり直すような物語を読みたい。
『フリンジラ・モンテ・フリンジラ』
ブラック企業だの社畜だの核家族だの就職難だのいじめだのと、色々あるけど社会問題以前にひとりの人間じゃん?とか言いたいわけではなく、ただ大事なひとと大事にお別れをするだけのお話です。たまに読み返してしみじみしてる。

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百合っぽいSFとかないの?
ネクタリスの海底』
いや基本的に「百合」や「BL」みたいなのをジャンルとして提示しないことにしているんですが、これに関してはなんか最終的に「ソラリスで百合」みたいな話になって色々大丈夫なのか。あと透明ケースいる?っていう突っ込みもありますが、なんていうの、本を手に取るという動作もまた読書の一部だと思ってる。サイズがイマイチあってないのはご愛敬っていうか、名刺とか細かいものを入れて持ち帰るのに使ってください。

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眠る前に少しずつ読みたい。
ペルセウスの旅人』
遠い星を渡る旅人たちの掌編集。どれも短く、遠い世界を旅するように読めるものなので、寝る前のお供にちょうどよいかもしれません。

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こんな感じです。ほかに「こういうのが読みたい」みたいなのは気軽に聞いてみてください。よろしくお願いします。

静岡文学マルシェに参加しました+文学を語りなおすということ

6/16(日)、静岡文学マルシェに行ってきました。楽しかったー!

桃パフェはおいしかったし、キウイのマフィンもおいしかった…食べ物ばっかりか。本はどうした。作りました。なぜかプラスチックケース入りとかいう、遠征にすこぶる不向きな本を出しました。当日手に取ってくださった皆様、ありがとうございました。(※新刊の「ネクタリスの海底」です)


ちなみに当日は、さらばさんに売り子をお願いしました。年に何回も会える人ではないので、このイベントを口実に会いに行ったという説もあります。そういうきっかけでもないと遠征しないので...。
なお、前日は熱海観光からの温泉で、完全にスイッチオフ状態でした。なぜかカニまで食べた。その話はまた今度、できればネプリペーパーにでもしたい。

静マルは新幹線の都合で15時過ぎには撤収しないといけなかったんですけど、14時過ぎにはすっかり落ち着いていて、のんびししたイベントだった印象です。ほぼ食べてるかしゃべってるかだった...立ち寄ってくださった方とも、色々なお話ができて楽しかったです。目にとめてくださってありがとうございました。

また、スタッフの皆様もほんとうにお疲れ様でした。最後にめんどうな宅配荷物を頼んですみませんでした。無事に届きました。

 

で、これで終わってしまうのもアレなので、帰りにつらつら考えていたことをぴょろっと書きます。 

 

今年の静マル、昨年と比べても一般参加者は少なめかな、という印象で、この規模のイベントではよく言われている課題だしな、とパフェ食べながら会場の様子を眺めてたんですけど、ちょっと待ってくれ。そうじゃない。

いや、書き手ばっかで読み手がいないとか、時々湧き上がってくるそういう話について春先からずっとふんわり考えていたのだけれども、なんとなく静マルの帰りに「もしかしてこういうことでは」って思ったことがあったので適当に語ります。イベントに対するどうこうではなく、ただの思考メモです。

あえて言うと、読み手が少ないことは問題じゃない。

文学の本質は読まれることではなく、発信することじゃないか。ここ大事なので、心のなかで各自赤ペンで線引いて。

いや、こう、ついでのように近代文学とかの話をするんですけど。太宰とか芥川とか鏡花とか、私の推しの中島敦とか。そういうのは、ただ読んでしみじみするだけだったら、それこそ文学は終わったコンテンツなんですよ。たぶん。誰かが言っていたとおり。

でも発信するじゃん。萌えるとかエモイとかヤバイとか言うじゃん。SNSとかで。李陵のエモさ語ったら1時間じゃ足りないよ私。あのほら、あれだ、太子丹が荊軻を送るところが最高潮なんですけど、今はその話じゃなくて、でもそれだ。我々がそうやって、今この時代で、今の生活とか社会とか考え方とかを背景にして語り直すから、文学は生きてるんじゃないのか。っていうところからこう、どこかに話を持っていきたかったんだけどここら辺で正気に返ってしまったので話を畳みますね…。

 

感想言おうよとか、さらに交流しようとか、そういう話ではないです。どっちかっていうと、交流のために創作するという感覚は苦手な方で、旅立っていった物語は好きに受け取っていただいて構わないと思っており。ただ、発信するということは、読み手が表現者になる瞬間で、それは感想でもいいし二次創作でもいいし、あるいはもっとなにか違う形があるのかもしれないけど、ともかく何かしら人から人に語り直されていかなければそれまでで、文学はほっといたら死ぬんだな…なんてことを考えていたのでした。

同人誌即売会という場に関して言えば、たぶん、「本を作る」と「本を読む」の間に位置する何かが必要なのかもしれない。本を作っている訳じゃないけど物語を書いている人とか、小説は書かないけれど手作りが好きな人とか、小説を書く人に会って何かやってみたい人とか、そういう、「間に位置する人」が、潜在的なイベント需要としてあるはずなのでは、と。しらんけど(※関西弁)。

 

ここまでとりとめもない雑談でした。
話、畳もうな。

 

私は普段大阪にいるので、年間スケジュールを立てるときは、まず文フリ大坂や関西コミティアを考えるんですけど、静マルも、静岡やその近隣県で(広義の)文学してる人たちにとって、そういうイベントになったらいいな...と思います。


それでは、また来年。

情報を代謝させるということ(活動再開のお知らせに代えて)

ご無沙汰しております。
今年も冬の旅から帰ってきたので、またもぞもぞと活動を開始しております。

この冬は色々なことがありました。いや本当に。
端的に言うと、これまでの人生を振り返り、その走馬灯をA4コピー用紙4枚にまとめたりとか、そういう。タイトルは「職務経歴書」。お察しください。転職活動してました。結果的には転職していないのだけれど、それについてはまたどこかで語り直すとして、何と言うか、あらゆるものを棚卸した冬でした。これまでに得てきたもの(インプット)と、この世界に提供してきたもの(アウトプット)を丁寧に書き出して、さてこれらはこの社会と、あるいは世界と、どういう風に繋がっていったのかと考える時間でした。そういう作業をしながらふと、

――人間に限らず、生き物って結局はアウトプットじゃん。物質の分解と合成、呼吸、言葉。何らかのインプットに対して、別の形にアウトプットされるということが生きているということでは。

ていうことをそのA4コピー用紙4枚の超大作大河ドラマ書きながら思ったのでなんかそういう話をします。

似たような話を創作の中でいつだったか書いていたような気もするし、これからも何かにつけて書いていきたい気持ちはあるけれども、それを、ただ創作というフィールドの中だけでなく、ほんとうに、実感として、あらゆるものがそうなのではないかと思ったのがこの冬でした。

我々は日々あらゆる情報を絶え間なく浴び続けていて、それはアウトプットしなければただ自分の中に蓄積される一方になるわけで。何か、どうにかアウトプットしなければ、パンクしたり腐敗したり、なんかそういうよく分からないことになる。テレビのニュースにヤジ飛ばすとか、ワイドショーにいちゃもんつけるとか。

だから仕事をしたり、小説を書いたりしている。
どうも、そういうことらしいぞ、と。

たとえば業界情報や資格の勉強は仕事という形にアウトプットされるし、
同じように、小説を書いている限りは、あらゆることに関心を持っていられるだろうという感覚がある。よく「本を読まずに小説を書けるのか問題」がタイムラインを流れていくけれど、私の場合はどちらかというと、あらゆる興味が物語に繋がっているという感覚があって、逆に言うと、あらゆる本を興味を持って手にするためには、小説というアウトプットが必要なのかもしれないと思ったのでした。個人の感想ですが。

もしアウトプットがなければインプットする意味はなく、むしろ害悪ですらあり、情報に害されないためには何にも興味を持たない人間になるしかないのではと。だから、働くことや、小説を書くことや、ほかにも気まぐれに絵を描いたり写真を撮ったりペーパーを書いたりしているけれども、ともかくアウトプットする先を、それも何らかのリターンがあるような、外と繋がるものがあるということが、結局は社会に耐えうるかどうかということなのではないか。

そういうことを考えていました。これは単なる思考メモだけれど、さてこれから何をしてどう生きていこうかと考えた結果のメモでもあり、置いとけば何かの役に立つかもしれないと思って書いています。コピー用紙4枚にわたる大河ドラマは、また必要になった時に使いまわせるし。

小説についていえば、昨年は、作品の行く先という話をしていた気がします。
今年は、工程としては少し遡って、どんなインプットに対して、物語としてどういう風に送り出すのか、ということを、考える年なのかもしれません。などと。

なんかこう、ややこしいこと考えてる風を装ってますが、別にそんなことはなくて、ライトに手に取ってフラットに楽しめるものを書いていきたいと思います。

くらげ、今年見た展示を振り返る。

今年も色々な美術館や博物館にいそいそと出掛けていました。
特に遠方の施設や、期間限定の特別展は、ほんとうに幸運が重ならないと見ることができないもので、見られてよかったな…としみじみ。

その中でも特に強く印象に残っている特別展を3つほど振り返ります。

 

『京のかたな 匠のわざと雅のこころ』京都国立博物館

katana2018.jp


正直、行く前は「刀ばっかり何百も見て面白いか…?ただ人混みに疲れて帰ってくるだけでは…?」と半分思っていたんですが、杞憂に終わりました。
なぜ鉄の棒がこんなに美しいのか。意味がわからない。美しい。ひたすらに美しかった。

平安に始まり時代順に展示されている膨大な刀剣は、山城鍛冶の歴史が幕を下ろすところで終わっており、ひとそれぞれ感じ方は違うとは思いますが、私にとっては、刀というものは完全な「過去」なんだな、というのを強く感じた展示でした。それは同時に、歴史を背景に見るものだからこそ美しいのかもしれない、とも思います。無理に今の時代に引っ張り出しても、もう武士はいないし、戦もない。包丁やペーパーナイフは技術の伝承にはなるかもしれないけれど、それは刀とは別のものなのだし、うまく言えないのだけれど、時代と共に歩んできたものは、時代と共に語られるべきなのだろうと思ったりもしたのでした。
ほんとうに美しいものを見せていただいた…。


『絵本のひきだし 林明子原画展』宮城県美術館

www.asahi.com

林明子さんというと「はじめてのおつかい」が一番有名でしょうか。
ほかにも小さい頃に読んだ絵本がいっぱいあって、懐かしさで泣いた。私が一番好きなのは、きつねの縫いぐるみと一緒に電車に乗って旅をする「こんとあき」でした。めちゃお気に入りだった。今見てもこんが可愛い。ほんとうに素敵なものを見せて頂いた....。

懐かしいばかりでなく、絵の中に隠された様々な仕掛けや意図が説明されていて、表現についてものすごく勉強になりました。

何より、こうして長い年月を経て見た時に、懐かしんで温かい気持ちになれる本に出会えていたということが、ほんとうに幸福なことに思えたりもしました。

 

『モネ それからの100年』横浜美術館

monet2018yokohama.jp

展覧会の趣旨はともかく普通にモネを楽しんできました。
好きだな、と思う絵が多くてとてもよかった。特に『テムズ河のチャリング・クロス橋』という絵がものすごく気に入って絵はがきをかったんですけど、絵はがきじゃ伝わらない…すごさが1%も伝わってこない…。こう、光がぶわっとして白と赤が美しくてな...(語彙力の限界)ほんものだから伝わるもの、のようなものを強く感じたりもしたのでした。綺麗にまとめた。

ところで、音声ガイドが櫻井孝宏さんだというので、生まれて初めて使ってみたんですけど、やばかった。諸事情により人を殺さずに生きてきた槙島さんがモネを語っていた。


ほかにも、エッシャー展面白かった、とか、アンデス展も視野が広がるような展示でとてもよかった、とか、色々見たなあ、と。特別展ではないけれど、お気に入りの大原美術館にも行くことができました。ゴーギャンが常設展にあるんですよ...そのためだけに足を運んでもいいくらい好きな絵が...。


来年は、とりあえずなんやかんやあって行けていないムンク展に行きたいんですけど、行けるかな…。